ブックタイトルクリエイティブ京都M&T 2014-5(No.100)

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クリエイティブ京都M&T 2014-5(No.100)

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クリエイティブ京都M&T 2014-5(No.100)

老舗フォーラム~100年経営を考える~老舗フォーラム~100年経営を考える~取材2月21日(金)、「京都ビジネス交流フェア2014」において、「老舗フォーラム~100年経営を考える~」と題して、長年にわたり京都で事業を継続してこられた企業の経営者による鼎談を開催しましたので、その内容を紹介します。[主催:京都老舗の会、100年経営の会共継催:京都府企、日本工業新聞社協力:近畿経済産業局、ものづくり日本会議]続業にのつい鼎談てコーディネーター辻田素子氏龍谷大学経済学部准教授?危機への対応を中心に服部重彦氏?㈱島津製作所代表取締役会長佐竹力総氏㈱美濃吉代表取締役社長鈴鹿且久氏㈱聖護院八ッ橋総本店代表取締役社長トップのリーダーシップで危機を乗り切った辻田?京都は日本の文化の中心として1200年以上にわたって輝き続けています。しかしその歴史をひも解くと、自然災害や戦争、東京への遷都など数多くの試練に見舞われてきました。それらをしなやかに乗り越え、長く続く企業には、共通点があるように思います。それは、長期的な経営視点で挑戦と革新を繰り返す、顧客を大切にしブランド力や信用に重きを置く、従業員を家族のように考え長期に雇用する、さらには地域社会にも貢献していることです。本日は、長きにわたって社会から必要とされ続けてきた3つの企業の経営者から、どのような時代にも通用する骨太の経営について伺いたいと思います。まずこれまでどのような危機に直面し、どう乗り越えてきたかをお聞かせください。服部?当社は1875(明治8)年、仏具店を営んでいた初代島津源蔵が、新時代の到来を機に、科学技術を用いて新たな経営を手がけようと決意し、創業しました。その後、わずか7年間で110種類の科学機械を世に送り出したのに続き、二代目は、180件以上の特許を取得した他、X線が発見された翌年に早くもX線の撮影に成功しました。そして今日、島津製作所は全世界に約1万人の社員を抱える企業に成長しました。そんな当社にとって最初の危機は、1923(大正12)年の関東大震災です。東京本社が全壊し、創業以来初めて大きな赤字を計上しました。この時、力を発揮したのがトップのリーダーシップです。この機に海外へビジネスを広げることを決断したことが、発展の礎になりました。二度目の危機だった1975(昭和50)年のオイルショックの時にも海外での攻めの経営の手を緩めず、飛躍に転じたのもトップのリーダーシップがあったからでした。さらに三度目の危機は、2001(平成13)年の平成バブルの崩壊です。この時もトップの英断で主軸に据えてきたMRI、CTの医療事業から撤退するともに、断腸の思いで130名の希望退職者を募りました。いずれの危機もトップのリーダーシップと社員の強いバックアップで乗り切ることができました。進取の精神で革新を繰り返すことで伝統になる佐竹?享保年間の1716年、三条大橋のたもとに美濃の国出身の佐竹十郎兵衛が開いた茶屋が、当社の始まりです。当時その場所に数多く軒を連ねていた川魚や生け魚料理を出す店の一つでした。それから数え、私で10代目にあたります。昭和初期に縄手通に開いた料亭「縄手美濃吉」が一世を風靡し、一方でかしわすき焼きの食べ放題の店を開くなど戦前は隆盛を極めました。長く苦しい時期が続くのは、1944(昭和19)年2月に決戦非常措置要綱が出されてから。料亭は閉店に追い込まれ、6年後にようやく南禅寺畔粟田口で再開しても、お客様は戻ってきませんでした。起死回生となったのは、1958(昭和33)年、請われて大阪の阪神百貨店に出店したことです。店は評判を呼び、大繁盛しました。世の中は外食産業が飛躍的に発達した時代です。当社も大衆路線に舵を切ります。赤字続きだった粟田口の本店を合掌造りに改築し、多くのお客様に愛される店へと様変わりしました。同業者からは「暖簾を安く売ったらダメだ」と陰口をたたかれましたが、気持ちは揺るぎませんでした。その頃から目指してきたのが、富士山型の経営です。富士山はすそ野が広いから美しい。より多くのお客様に伝統的な京料理を楽しんでいただき、京料理のすそ野を広げたいと思っています。その後、私が跡を継いでからは、アメリカ留学で得た経験からフードサービスチェーンシステムを取り入れ、店舗を増やしてきました。最後の大きな転換点は、平成時代が幕開ける頃です。店舗が拡大する一方で、いつしか品質への追求がおろそかになっていたと気づき、一念発起して原点回帰。粟田口の本店を「京懐石美濃吉本店竹茂楼」に生まれ変わらせました。幾度も危機を乗り越えてきて実感するのは、伝統とは革新の連続だということです。進取の精神と挑戦する気持ち、柔軟な発想、そして優しさがなければ店を長く維持することはできません。鈴鹿?江戸時代初期の高名な僧侶で音楽家としても大成した八橋検校にちなみ、琴をかたどったのが、八ッ橋の由来です。1689(慶長19)年、八橋検校の墓のある金戒光明寺の参道にあった当店が、検校の墓前に参る人々のために出したのが始まりでした。細々と営んできた店が大きく変わったのは、明治維新です。鉄道が開通し、京都駅や七条駅の停車場で女性のお客様に販売したところ評判を呼び、八ッ橋の名が全国に広がっていきました。苦労したのは、美濃吉さんと同様戦争末期。砂糖や小麦粉などの原料がほとんど手に入らず、破産寸前に追い込まれました。その後も何度か厳しい時代がありましたが、そのたびにゆかりの方や地域の方々が資本3 Management & Technology for Creative Kyoto 2014.5